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デスティノジャパン(紹介記事)

 

ボクサー人生最大にして、ラストチャンス。3月16日、ピューマ渡久地ジム所属としてA級ボクサー登録を終えた元ドミニカ共和国代表のオリンピアン(31歳)は、自らのリングネームをデスティノジャパンと命名。「日出る国」で拳闘選手としてデスティノ(最終到達地点の意)が見据えるのは、スーパーライト級世界王者のベルトなのか。
(岡庭 慎)

 

デスティノジャパンこと、ブラディミール・バエス(愛称・ブラディ)は1984年49日、ドミニカ共和国のほぼ中央に位置する、スポーツが盛んで大規模な祭りでも世界中にその名を知られる、ラ・ベガ州で生を受けた。12歳でボクシングを始めたブラディミール少年はすぐに頭角をあらわし、EDPAサンティアゴ・タイトルで優勝。コパ国際大会では銅メダルを獲得するなど、同地のトップ・アマ選手として名をあげ、04年にはアテネ五輪のドミニカ代表選手にも選出されたが、輝く五輪メダルには惜しくも手が届かなかった。アマでの通算戦績は、200戦以上をこなし、9割以上の勝率を記録してきたが、色良い条件でのプロ入りスカウトは皆無だった。家が貧しい彼には、プロに進む以外選択肢はなかった。07年6月、23歳とやや遅いプロ・デビュー。その後、順調にプロとしてのャリアを積み重ねるがマネージメントには恵まれず、世界への道が開かれることはなかった。強打と技術を兼ね備えたドミニカ人のキャリアはここまでかと思われた。(ドミニカでの)プロ戦績は、24戦20勝18KO2敗2分。昨年4月、彼に転機が訪れた。旧知の後輩で同郷である、ザッパトウキョウ(ピューマ渡久地ジム所属・スーパーバンタム級=29歳)に日本行きを誘われ、ピューマ渡久地ジムを訪れることになったのだ。渡久地聡美会長が当時を語る。「当ジムの2度のキャンプ(九十九里浜の海岸、市原ベルセルバカントリークラブ・ゴルフ場)に参加したブラディは、とても優秀なフィジカル・トレーナーとしてコブラ諏訪ほか選手たちにとてもクオリティの高い指導をしてくれました。それを見て、(フィジカル)トレーナーを務めてもらおうかと考えていたのですが・・・」。その話を聞いたブラディの答えは、意外にも「NO」。まだまだ現役で戦えることを渡久地会長に熱心にアピールしてきたという。

 

「彼は1日中、ボクシングのことを考えていて、口から出るのはボクシングのことばかりの、とても真面目な人間なんですね。そんな彼の日常の姿勢に、私は強く心を動かされたのです・・・」。行動力に長けるスマートな渡久地会長は、駐日本ドミニカ共和国領事館を何度も訪れるなど関係各位の協力を万全に得て、ブラディに就労ビザを取得させることに成功。晴れてピューマ渡久地ジム所属のA級ボクサーとなったのである。

ブラディは「恵まれた環境を与えてくれ、世界王者になる最後のチャンスをくれたボス(渡久地会長)には、心から感謝しています。このジムに世界王者のベルトを持ち帰れるよう努力を惜しみません」。リングネームにJAPANを冠したドミニカ人は、控えめに白い歯を見せた。

ボクシングライター
岡庭 慎

 

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 ドミニカ共和国大使館で大使に表敬訪問した際  デスティノジャパン